第一巻 解説
佐藤忠男(映画評論家・日本映画学校校長)
 1920年代、30年代の日本のアニメーションの業界で、いちばん多作で人気もあったひとりは村田安司である。横浜で輸入された外国映画の最初の上映館として有名だったオデオン座の看板絵を描いていたところを、1926年に横浜キネマ商会という会社で主としてドキュメンタリー系の教育映画を作っていた青地忠三にスカウトされてアニメーションの技術を研究させられた。そして青地忠三が脚本、村田安司が動画というコンビで多くの作品が作り出されたのである。
 その横浜キネマ商会作品はこの第一巻に「瘤取り」(1929年)、「かうもり」(1930年)、「猿正宗」(1930年)、「おい等の野球」(1931年)などが入っているほか、第二巻には「空の桃太郎」(1931年)、「海の桃太郎」(1932年)、「三公と蛸〜百万両珍騒動〜」(1933年)、「雲雀の宿替」(1933年)、「のらくろ二等兵」(1933年)、第三巻には「のらくろ伍長」(1934年)、「海の水はなぜからい」(1935年)、そして今順太原作で村田安司の演出作画による「居酒屋の一夜」(1936年)が収められている。
 漫画家のうしおそうじは小学生の頃に学校上映会で村田安司作品を見た思い出をつぎのように書いている。
 「学校上映会で最も人気があったのは村田安司の漫画映画だった。なんといっても絵がよくて動きがいい。ストーリーがおもしろく、子供たちにはこの青地+村田コンビ作品は絶対だった。・・・村田漫画の主人公は、豚、猿、蛸、蛙などを極端にデフォルメせず、控えめに擬人化しているところがいい。子供たちの目にそれらの主人公たちにかぎりなく親近感をよぶ。しかも画品をもたらす効果も挙げていた。モダンな中に日本の伝統的な美意識を欠かさぬ平衡感覚が文部省の役人たちに受けたのであろう。」(うしおそうじ「手塚治虫とボク」草思社、2007年)
 この巻に「黒ニャゴ」(1929年)、「村祭」(1930年)、「国歌  君か代」(1931年)の三作品が、続く第二巻に「春の唄」(1931年)、そして第四巻には「熊に喰われぬ男」(1948年)が収められている大藤信郎は、千代紙映画という独特の技法を工夫して家内工業のようなやり方で家族とこつこつアニメーションに打ち込みつづけた人である。ふつうの漫画的な作品もあるが、耽美的な題材で特異な才能を発揮し、1952年に「くじら」がカンヌ映画祭で受賞してピカソに誉められたことから日本でも改めて注目された。